拙著『日本語の科学が世界を変える』(筑摩選書)に対して熱烈な反応をいただき、深く感謝します。日本の科学の将来について、私しか書けない内容を記したつもりです。本書の内容とも深く関連する講演を2002年の日本生物物理学会でしており、その趣旨を公開しておきたいと思います。


 中村修二博士および赤崎・天野両博士のノーベル賞受賞、おめでとうございます。『赤の発見 青の発見』『青の軌跡』を編集・発行した人間として、今回の受賞はとてもうれしく思っています。

 ただ、今回の授賞には一言申しあげたいことがあり、雑誌「natureダイジェスト」からの原稿執筆依頼に事借りまして、私の見解を述べさせていただきました。(http://www.nature.com/ndigest/index.html)ご覧いただけると幸いです。

(白日社編集長:松尾義之)



  ●「科学する人びと、科楽する市民」……2002.11.3
  ●出来の悪いロジックは、科学の発展を妨げる……2014.10.29
  ●論文捏造騒ぎは、なぜ起こるのか?……2014.5.2
  ●『日本の数字』のその後の活動について……2010.9.15
  ●民主党代表選挙での要注意事項……2010.9.2
◇過去のコラム
  ●《外国為替市場はラスベガス》……2004.10.27
  ●《郵政民営化は多国籍企業の陰謀?》……2004.10.27
  ●《公私混同と民営化》……2004.10.27
  ●《米国債を売って、新潟県中越地方の復興資金にしよう!》……2004.10.27
  ●《Newsweek世界国力ランキング》……2004.10.28


「科学する人びと、科楽する市民」……2002.11.3


「科学する人びと、科楽する市民」


2002年11月3日(日)午後1時〜;名古屋大学シンポジオン;生物物理学会公開講演会松尾義之(白日社編集長)

 ノーベル化学賞が3年連続、今年は物理学賞とダブル受賞という嬉しいニュースですが、私は10年前くらいから「日本人のノーベル賞受賞者が毎年出るような時代なんかすぐ来るよ!」と公言してきました。このことを覚えている人がいて、「なんでそう断言できたの?」と聞かれるのですが、それは「日経サイエンス」の編集者として、多くの科学者、技術者と付き合ってきた経験から出た実感でした。
 ただし、「実感」とか「直感」というと根拠のない予想屋みたいに思われるので、もう少し理屈をつけると、(1)日本には学問を愛する長い伝統があって、それが少なくとも300年以上も途切れることなく継続してきたこと、(2)母国語で科学・科楽することのできる国であり、目に見えない底力は凄いものがあること、(3)計測技術分野における実力が確実に世界のトップになってきたこと、(4)地球上で最も豊かな平和国家であること、といったことがあげられると思います。
 くれぐれも申しあげますが、日本政府が「これからの五〇年でノーベル賞を三〇人出そう」と言いだして、多額の研究資金を特定のテーマや人にたくさん出し始めたことについては、私は批判的です。なぜなら、これまでの“広く浅く”の研究予算配分のやり方が結果としては成功しているように思えるし、その方が日本人には合っているように思えるからです。私はこの3月に『高速道路と自動車』という誰も見ない雑誌に「ノーベル賞を三〇人出そうなんて宣言は逆効果だ」と書いたほどです。
 私は、この国には“科楽する市民”がたくさんいる、と思っています。そもそも、ノーベル賞受賞が新聞のトップ記事になるくらいの社会ですから……。よく言われることですが、“科学する人びと”(芸術家・音楽家・学者も含めてよいでしょう)と“スポンサー”の関係は、大昔と比べると、変化してきました。かつては、スポンサーは王侯貴族(パトロン)でしたが、今日では、スポンサーは直接の資金提供者である“国家・自治体”とも言えるし、納税者である“科楽する市民”とも言えます。
 今では私たち自身がスポンサー=パトロンなのです。もっと実感を持ちましょう。では、パトロンの要件は何でしょうか? 私は「確かな目をもつこと」だと思います。パトロンは“科学する人びと”の成果を、評価・称賛・批判する責務があるはずです。言い換えれば、「評価する」という力を、私たちは養わねばなりません。
 ここで、私が考え出した「科楽」という言葉について一言ふれておきます。「楽」は、もちろん科学を楽しむという意味もありますが、実は、音楽のもつ「時間性」を言葉に込めているのです。耳(目ではなく!)が受ける情報とも言ってよいし、時とともに移り変わる歴史性と言ってもかまいません。要は、「常に変化し続ける学問として、科学を楽しむ」という思いを込めて、この言葉を作りました。ま、まだ市民権を得た言葉ではありませんが……。

 私が期待する“科楽する市民”は、自分のアタマと価値観で、日本の科学や技術を評価・応援する人々です。もちろん、これは当事者である“科学する人びと”にも申しあげたいことです。「日本的科学」というのはないかもしれませんが、「日本がとくに評価する科学や技術」はあってよいと私は思っています。
 “科楽する市民”の一人として、少し独断的見解を申しあげたいと思います。小柴昌俊さんたちのカミオカンデ(浜松ホトニクスの光電管)はたいへん立派な仕事です。しかし、共同受賞のデービスさんたちの太陽ニュートリノ観測は、もっともっと立派だと私は思っています。25年前、桜井邦朋(前・神奈川大学長)さんを除いて、日本人科学者は全員がデービスさんの仕事を信用しませんでした。また、もう半分の受賞であるジャコーニさんも、宇宙科学研究所の故・小田稔博士たちの仕事があったればこその受賞だったと思います。これまでにも、このようなケースはたくさんあって、日本人が取らせてあげたノーベル賞だって、いくつもあるのです。二年前の物理学賞(2000年)なんかその典型だと私は確信しています。こう言っても、もう負け惜しみには聞こえないでしょう。
 もう15年くらい経つかもしれませんが、かつて「日経サイエンス」でノーベル賞を取りそうな日本人科学者の特集をやったことがあります。その最後に「ノーベル賞を超えた科学者」として、アルカリ微生物の発見者である掘越弘毅博士と分子進化の中立説の木村資生博士を取りあげた記憶があります。実は、この部分こそ、私が最も主張したいことでした。この二人は、ノーベル賞の受賞分野にないから、そうしたのですが、実は、日本の科学には、こうした分野にも優れた研究者がたくさんいて、日本社会は、そうした業績を高く評価していると思うからです。“科楽する日本の市民”のものの見方が典型的に現れていて、ここがポイントだと私は思ったのです。いまもそう思います。
 生物物理についても触れねばなりません。生物物理は、私は生物学関係で、日本が最も大きく貢献してきた分野であると確信しています。地味で目立たないかもしれませんが、綺羅星のような逸材によるたくさんの成果を人類に提供してきた学問分野です。大澤文夫先生(名大、阪大)、故殿村雄治博士(大阪大学)、江橋節郎博士(東大、生理研)、丸山工作教授(東大、千葉大)、柳田敏雄博士(阪大)といった人々です。田中耕一さんの今回の受賞も、こうした豊かな学問の沃野があったればこそで、周辺分野を含む日本の土壌の中から生まれた、と言ってよいと私は思います。


出来の悪いロジックは、科学の発展を妨げる。……2014.10.29


《出来の悪いロジックは、科学の発展を妨げる。
−−ノーベル物理学賞選考委員会批判》


 うれしいことに、2014年のノーベル物理学賞が日本人3人、赤崎勇・名城大学教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授に贈られることになった。授賞理由は、「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」である。

 日本人の受賞なのでうれしいことには間違いないのだが、今回の物理学賞の選考理由は、またまたクビをかしげたくなるロジックだった。私自身によるレポートは「natureダイジェスト」を参照していただきたい(http://www.nature.com/ndigest/index.html)。

 物理学者というのは、日常や現実と関わっている人々ではない。むしろ一番遠いところで生息している。ヒッグス粒子だったり、遠い宇宙の天体物理学だったりを研究するのが本性である。もちろん、少し日常に近い世界を追いかける物性物理学者などもいるが、あくまでも高尚な基本原理や法則を追求するのが本業である。
 したがって、今回の授賞理由のような「高輝度で省電力」などという俗世間の価値観をうたうことは、物理学としては言語道断である。大きな違和感がある。なぜなら、日常的な価値観は、時代とともに変容してしまうため、そうならない価値を、物理学は追求してきたからである。社会への価値を第一に考える学問は、工学や技術であって、決して物理学ではない。

 今回の授賞理由も含めて、最近のノーベル物理学賞の選考理由の論理はおかしい。というか、かなりヘタクソだ。間違い(mistake)とか悪質(wrong)とは言い切れないのだが、ダメ(bad)な論理で成果や受賞者を位置づけているとしか言いようがない。もしも、わかってこのような論理を展開しているのだとしたら、選考委員のメンバーは名乗り出るべきである。今回のような屁理屈は、未来の科学者や科学史家によって、厳しい批判や再調査の対象にされかねないと思う。

 そもそも、半導体デバイスにせよ工業製品にせよ、その性能を決めているのは「構造」と「品質」である。それは、材料のレベル、デバイスのレベル、製品システムのレベル……、とすべての階層について言えることだ。今回の青色スーパーLEDでも、材料の窒化ガリウムの品質とLEDの構造がきちんとできたために、光度1カンデラ以上の製品がやっと誕生したわけだ。研究室レベルの暗い青色LEDならとっくの昔に存在していた。

 選考委員会は、高品質の窒化ガリウムを作ることが、青色スーパーLED実現にとって必須だったことを今回ようやく認めた。過去の物理学賞の受賞理由を調べると、今回の授賞が、まさにルビコン川をわたったシーザーに匹敵する大決断だったことがわかる。というのは、これまでの物理学賞選考委員会は、基本的に、半導体デバイスの研究は、デバイス構造にこそ真の価値があって、材料そのものの改良など、所詮は土方仕事で科学的価値はない、と見なしてきたフシがあるからだ。

 その典型が、2000年の「ヘテロ構造」への授賞である。今回の青色スーパーLEDもそうだが、素子構造の中に、電気を閉じ込める仕組みと、光を閉じ込める仕組みを同時に組み込んでいる。これを「ダブルヘテロ構造」という。この授賞説明のとき、ダブルヘテロ構造こそが、青色スーパーLEDを実現するカギだったという見解を発表したのだ。
 しかし、これは誰が見ても明らかな誤りだった。ノーベル物理学賞を取り巻いている物理学者は、決定的な過ちを犯してしまった。正しくは、青色スーパーLEDを実現するカギは、物性の原則である構造と質のうちの、「質」のほうだった。だから、今回の白色LED/青色LEDうんぬんのロジックは、「すみません、間違えました!」という言い訳なのだ。でも、それならそうと間違いを明言しなければならない。それが科学者・物理学者の良心というものであろう。

 さらに、物性の大原則である「構造と質」の関係をわかっていないから、ロジックが完璧に破綻してしまった。そもそも、今日のスーパーLEDはホロニヤクの時代の豆電球LEDではなく、西澤潤一博士が苦労されて切り開いた新しい学問分野だ。それを今回青色で認めながら、ノーベル賞の大原則であるオリジナルの赤色を認めないから、「枝は認めても、根は別ものだ」というまったくの論理矛盾を起こしてしまった。
 スーパーLEDはオリジナルが日本生まれ。それもあって、青色、白色も含めて、すべてが日本生まれとなった。「構造」と「質」、そして何より、実際にものを作ることを第一の価値とする技術者や職人の文化が、日本に根付いていたことと無関係ではない。
 アメリカやドイツではスーパーLEDはできなかった。「構造」にアタマは行っても「質」に行くスキルがなかった。その泥臭い作業に誇りをあたえる「ものづくり文化」もなかった。しかし、それが日本にはあったのだ。

 もう一点だけ言う。ノーベル物理学賞選考委員会は、今回の授賞説明のところで「pn接合の実現」に最大の価値においている。これも間違いとはいえないが、決定的な条件を忘れている。それは、「その時点においてもなお、スーパー青色LEDが実現するかどうかは不透明だった」という現実だ。工学や技術の世界では、あと一歩まで行っても、そうならないことなど山ほどある。その大きな山を越えられるかどうかが、実は優れた技術者とダメな技術者の境と言ってもよい。それをご存じない物理学者の非日常性が、見え隠れする。

 こんなものを持ち出すから、結局のところ、誰かを貶めることになってしまった。答えがあることが判明したあとから見れば、確かにそれは大きな進歩であった。でもそれなら誰が、実際に、この大きな課題を乗り越えたのか。誰が、その競争に遅れてしまったのか。もし本当に先行していたのであれば、青色レーザーダイオードも先に実現していたはずである。そのノウハウを供与していた企業もまた、大きく繁栄しているはずである。これは工学や技術の世界の常識だからである。
 この分野における日亜化学の大成功、豊田合成の退潮を見れば、何が本当であったのか、一目瞭然である。どんなに屁理屈をこねようとも、現実こそが、すべてを語っている。普通の人はそれを知っている。知らないのは物理学者だけなのだ。

 赤崎博士、天野博士は、窒化ガリウムの基礎研究において、立派な仕事をされたのだ。そこを大きく評価し、賞賛すべきである。しかし、それ以上は不要だ。なぜなら、そこから今日の青色スーパーLEDや白色スーパーLEDに直結したのではないからだ。過大評価はありがた迷惑であり、名古屋グループの真の価値を貶める。そして、真実をゆがめ、歴史を捏造し、ひいては日本の科学技術の行方を危うくする。昔は優秀な科学者の代名詞だったのが物理学者なのに、いったい、いまの学者はどうなってしまったのか。
 バカの壁は厚い。真実だけがヒトを傷つけることはわかっている。でも、あまりにも酷いので、あえて警告した。

 最後に、高輝度ダイオード(=スーパーLED)を誰がいつ、人類にプレゼントしてくれたのかを列記しておく。出典は、2014年11月4日発売の改訂普及版『なぜノーベル賞を受賞したのか−−青色LED開発の軌跡』(小山稔、白日社)である。著者の小山さんは、これらすべての製品をエスコートして世にデビューさせてくれた人だ。

<スーパーLEDの誕生記念日>
・赤色:1983年5月(西澤潤一+スタンレー電気)
・青色:1993年11月30日(中村修二+日亜化学)
・純緑色:1995年9月(日亜化学、現実には1月10日)
・白色:1996年9月13日(清水義則+日亜化学)

【注:光度1カンデラ超の高輝度発光ダイオード、カッコ内は発明者と実現者。】

2014.10.29



●論文捏造騒ぎは、なぜ起こるのか?……2014.5.2


《論文捏造騒ぎは、なぜ起こるのか?
−−論文数至上主義と三者の利益共有体が科学を劣化させる》


 小保方晴子・理化学研究所研究ユニットリーダーによるSTAP細胞騒動は、理化学研究所の調査の最終報告が出され、ゲル電気泳動写真の切り貼りに関しては不正行為、多能性を示すとされる三枚のカラー画像(小保方氏の学位論文の写真に酷似していると指摘されたもの)に関しては、出所不明ゆえに捏造という判定が出された。
 しかし小保方氏は異議を申し立てている。カラー画像に関してはネイチャー誌に訂正済みだと主張しているし、ゲル電気泳動写真も元の写真がある。小保方氏はいずれも「悪意のない間違い」だと主張する。単なる間違いか不正行為か、この場合の判定は、裁判所でも難しいと思われる。例えば技術者倫理であれば、「悪意のない間違い」とは不注意で鉢植えを枯らしてしまうような行為のことで、倫理的に問われる失敗ではない。しかし、この種の不注意をおかすのは、必要な知識を欠いた無能な人と評価される。不正行為なのか未熟無能なのか、それは見る人によって異なる。
 未熟か不正かの議論と、研究の真偽に関する議論はまったくの別物だ。だから、理化学研究所は独自に約一年間をかけて、STAP細胞が本当に存在するのかどうか、再現実験を進めるという。再現できれば決着がつくが、再現できなくてもSTAP細胞なしとは断定できない。それが�論理の非対称性�だ。ただ、論文を読めばわかるが、二カ所の画像が修正された上で、なおかつこれがウソだったら、現在の生命科学はみな怪しいものになりかねない。そのくらいの完成度をもった論文であるのは間違いない。
 実は、今日のバイオサイエンスや生命科学は、めざましい進歩や成果が報じられる一方で、さまざまな問題が渦巻いている。中には、このまま放置すれば、科学者の努力が砂上の楼閣に終わってしまうほど深刻なものもある。小保方氏の騒動は、この分野全体に関わる諸問題について、根本から再検討する絶好の機会を与えているように見える。

なぜ不備な論文が受理されたのか?
 今回の出来事で最大の謎は、「なぜ内容に不備のある論文が、ネイチャー誌に掲載されたのか?」ということではなかろうか。薄々はおわかりかもしれないが、実は、そういう論文は、いまや山ほどあるということだ。著者があとから研究や実験の不備に気がついて、修正したり取り下げたりする論文が多数ある。
 なぜなのか。理由の一つは、科学が性善説で成り立っているからである。科学という営みにおいては、論文にウソが書かれることはないというのが大前提だ。間違えたら直すのが正しいし、それが実行されている。もし性悪説に立つとなると、膨大な研究について、すべて追試験をして確かめなければならなくなる。こんなことは不可能だ。
 不可能という意味は、実際に追試験ができないという意味ではない。できる環境にない、ということだ。投稿された論文を実際に読んで審査(査読)するのは、その研究に最も近いところにいる研究者である。このような仕組みを「ピア(専門家)レビュー」という。今日、あらゆる科学論文雑誌において、採用されている審査制度である。しかも、この査読者は、誰がやっているか秘密であり、それゆえに公正さも保たれている。また、この行為はすべて無償のボランティアで行われている。なぜなら、審査する側も研究者だから、逆の立場、つまり論文を投稿して審査してもらう立場になるからである。要するに、世界の第一線で活躍する研究者は、自分の論文を書き、他人の論文も読んで評価しなければならない。そういう日本人科学者もたくさんいるということだ。
 性善説とボランティアによって成立しているのが現代科学である。そのような環境の中で、成果をめぐる競争がくり広げられている。ただ、まったく同じテーマを追いかけているケースはほとんどなく、普通は、少しではあっても違うのが現実だ。そもそも、まったく同じ研究というのは、少しでも遅くなれば、基本的に無意味となる。絵画の世界だって、まったく同じでは贋作だ。
 ということは、個々の科学者は、他人の仕事の後追いなど、絶対にやりたくないのである。したがって、もし追試験(再現実験)をしようとなったら、「誰がそれをやるのですか?」という話になってしまう。今回、理化学研究所がSTAP細胞の再現実験をやると決めたのは、騒動を起こした一因が理化学研究所にあって、その組織的責任を感じたからである。
 しかし、これは例外中の例外だ。よほど大きな話でない限り、他人の研究の再現実験などしようという奇特な研究者はいない。たとえ再現できても、最初の研究者の業績にはなっても、その人の業績とはならない。できなければ、時間の浪費、騙されただけ、というバカな結末が待っている。どっちに転んでもメリットがないから、再現実験など普通はやらないのだ。今回、理化学研究所でこの嫌な仕事を誰が押し付けられたのか。知ればイレギュラーであることは明白である。
 もちろん、一九八六年のベドノルツとミュラー両博士による高温超伝導論文(ドイツ物理学会誌)や、中村修二博士による一九九一年の青色LED論文(JJAP誌)のような例外はある。これらは別格で、しかも、抜け落ちた特許や未解明の科学的成果も残されていることが明らかだった。こういう非常に大きな研究ならば、追試実験をやっても得るものが多く惜しくはない。ちなみに中村博士の論文実験の追試確認には、技術が高度だったこともあり、実に二年近くもかかっている。
 しかし、今進められているようなバイオ研究では、自分の研究を中止してまで、別の研究者の追試をする余裕はない。科学は性善説に立っており、いちおうきちんと論文が書かれていれば、正しいと認め合うのが普通である。今回の小保方氏の研究も、全体のコンセプトの立て方には何の問題も見られない。証明の仕方も、確認をとってほしかったと思う面はあるものの、論理的に決定的な欠陥があるとは言えない。しかも、共著者に名前を連ねている研究者は、世界的に知られる第一人者だから、まさか不備のある論文とは、まず、疑うことはない。
 「そんないい加減なことでいいのか!」と怒るのは、素人か部外者である。そもそも、科学というのは、並みの頭脳では解けないような難しい問題に取り組んでいる。この世界に入れるのは、優れた実績をあげた優秀な人間がほとんどで、その能力は、国際会議などで話をしたり議論したりすれば、ほとんど自明である。二流の分野ならともかく、バカが第一線の分野に入り込む余地はまずない。疑い出したら切りがないし、その確認のために失う時間とお金と才能の方が、莫大になる。
 でも、過去に、大きなウソが通ってしまった例がある。ベル研究所の有機半導体素子の研究者シェーン、韓国のES細胞研究者の黄禹錫(ファン・ウソク)がその最たるものだ。ともに、捏造つまり完全なでっち上げだった。ちなみに、黄禹錫ができたとした成果は、いまではもう別の研究者によって実現しているが、あの事件もあって、立派な成果なのに光が当たらないのである。いずれも、「非常にありそうなこと」という点がよく似ていて、今回のSTAP細胞も、これらと非常によく似た位置関係にあるため、必要以上に疑われている面も否定できない。いずれにせよ、STAP細胞は再現実験待ちだ。

三者の利益共有関係が、科学を劣化させる
 以上が、今回の理化学研究所の問題を正しく理解するための核心部分だ。性善説の世界に、意図的に騙そうという人間が入ってきたら、そう簡単に見破ることはできない。悪意を持った人間は、誰でもわかるような単純ミスはしないのが普通だからだ。ではなぜ、論文捏造事件は起こるのか? 科学自体を否定する行為がたびたび起こる背景には、今日の科学を包み込んでいる大きな黒雲、暗雲がある。その一つが、論文至上主義というドグマである。そしてもう一つは、それをめぐって、科学者と論文雑誌と資金提供者の三者が「緊密な利益共有関係」を確立してしまっていることだ。
 科学研究の九割以上は、実は、税金でまかなわれている。これは世界共通であり、納税者も注目してほしいと思う。まず論文至上主義だが、これは「科学の成果は、発表論文の数で評価する」ということである。それに何か問題があるのですか、と逆に聞かれそうだが、「素晴らしい成果をあげた科学者を高く評価する」のは大前提である。ところが、それを客観的に計る方法がないという理由で、「論文数で評価する」ことにしてしまっているのが問題なのだ。
 どんなことをやっているか。例えば論文数を多くするために、昔なら一つの論文だったものが、数本の論文に切り分けられ、短報がたくさん投稿される。こうすると、筆頭著者も増え、博士論文にしたり、大学職員などへの就職のための基礎点を加算したりできる。相互の論文引用数も増え、加算合計も増える。また、分散投稿した各雑誌のインパクトファクター(影響度)も増える。
 いかにも客観的データのように見えながら、その仕組みを逆に利用して、功利主義としか思えぬ�論文投稿戦略�が日常化しているわけだ。
 要するに、論文至上主義は、科学を目方商売にしてしまったと言える。中味より量で、論文をどれだけ発表したかだけが意味を持つ時代となってしまった。つまり、いまの論文至上主義は、成果至上主義ではなく、数量至上主義なのだ。論文をたくさん出せば多くの成果が上がっていることになる。ネイチャー誌やサイエンス誌に論文が掲載されたら、専門雑誌論文の何本分に相当する、といった換算をして合計する。中味を読むことなく、最高級の雑誌だから価値がある、と無批判に認めてしまっている。
 もちろん、仕方ない面も確かにあるのだが、ここではあえて、そうした科学界に流れる惰性に逆らってみたい。みんなが気づいているのに、誰も声を出せない�悪性腫瘍�にもメスを入れたい。それが、科学者と論文雑誌と資金提供機関の三者による、排他的な「利益共有関係」だ。中世ヨーロッパのギルドみたいなものと言ったら言い過ぎだろうか。
 ネイチャー誌やサイエンス誌などの論文雑誌と、科学者との関係は密接だ。科学者は論文雑誌に投稿して論文が掲載されないと評価されない。だから投稿する。論文雑誌の方も、有名科学者が投稿して話題の論文が掲載できれば、読者の注目度があがり商売が好調になる。有名雑誌に論文が載れば、資金提供機関から多くの研究費が入る。研究費提供機関も、有名雑誌に記事が載って、それが新聞ニュースになれば、納税者に「優れた研究にお金を出している」というPRや言い訳になる。
 一歩踏み込んだ例も見られる。理化学研究所は「理研ニュース」という欧文のPRニュース媒体を発行している。その制作費はかなり高額らしいが、請け負っているのは、ネイチャー誌を発行している会社と事実上、同じ会社である。もちろん、だからと言って、ネイチャー誌編集部が理化学研究所に甘い記事や対応をしているはずがない。ただ、倫理に厳しいはずの英国の気品ある科学論文雑誌が、ニュース面では利益相反を批判しながら、裏で会社として自らそれを実行してしまっては、もう話にならない。関係が密接すぎて、限度がわからなくなっているのかもしれない。
 あげれば切りがないが、科学者と論文雑誌と資金提供機関の三者は、収益共同体みたいなものだ。獲得すべきお金の出所は税金である。うがった見方をすれば、三者がグルになって、税金をどんどん自分たちの方に誘導している。もちろん、こうした仕組みは科学に限らないとは思うが、少なくとも、そこでは、真っ当な科学が展開されていなくてはならない。それが最低限のモラルである。
 素粒子や宇宙の研究が、何かの役に立つかと聞かれても、すぐに答えは見つからない。ところがバイオ関係の研究は、真偽はともかく、病気の克服につながる、がんが治る、老化が防げる、と良いことづくめだ。メディアもそれをあおってきた。実際、いくつか薬はできたのだろうが、では、かつての抗生物質に匹敵するような本当に画期的な薬は、いつ何が誕生したのだろう。
 いまや、英米では科学論文の六割がバイオ分野であり、日本でも五割がそうだ。ということは、論文雑誌もまたたくさん創刊されているということだ。ネイチャー誌など、姉妹誌や関係誌が山ほどある。凄まじい拝金主義と言いたくなるような状況だ。繰り返すが、そこから立派な科学的成果が生まれているなら、まだ問題は少ない。そうでないのに、無駄に近い二流の論文が量産され、それが二流の姉妹誌に掲載されて、それを理由に膨大な購読料が税金で支払われているとしたら、これは問題にしなくてはならない。
 もちろん、科学者と論文雑誌と資金提供機関の三者は、科学研究を進める上での不可欠要素である。だから利益共同体だという言い方もできる。しかし、真っ当な科学を進めるという観点に立てば、正しく進めるべき仕組みや、そのチェック機構がなければおかしい。せめて、三者の間に緊張関係がなければおかしい。間違いを正す力が生まれなければ、非常にまずい。
 特に、低品質の論文至上主義のような科学の根幹に関わる問題が生じると、この三者は「三すくみ関係」になってしまう。要するに、誰一人、声を上げることができないのだ。論文雑誌に、自分の食い扶持を否定することなど、できるはずがない。科学者は、自分が投稿したり、査読者を務めたりしている論文雑誌を批判できない。資金提供機関も、論文がたくさん出るのは大変によいことであるから、問題とは考えない。実態を理解できない官僚や政治家は「もっと論文を出せ!」と言い出す始末だ。  科学者や資金提供機関が黙っていたり喜んだりしていることを理由に、論文雑誌は暴利をむさぼってきた。しかしそれが今、大きな節目を迎えている。

オープンアクセス雑誌
 論文雑誌の暴走に歯止めをかけるべく登場したのが「オープンアクセス雑誌」だ。少し前まで金城湯池だった論文雑誌が、オープンアクセス雑誌にどんどん蚕食されているのだ。科学の世界で最も高い評価を受けている論文雑誌は、ネイチャー誌とサイエンス誌である。それにつづく序列として、「セル」とか「フィジカル・レビュー」とか「米国化学会誌JACS」などがある。
 これまでの論文雑誌は、すべて、その購読料によって費用がまかなわれてきた。すでに触れたように、税金でなされた研究成果は、税金で報酬が支払われている科学者によって執筆され、同様の立場の科学者により、ピアレビューというボランティアの査読過程を通して掲載か不掲載かが決まり、合格とされたものが論文雑誌に掲載されてきた。これで何の問題もなかったのだが、ネイチャー誌が、半分はその優位的地位を利用して、非常に高い購読料を主張しはじめたのである。
 あまりニュースになっていないが、その高い購読料に抗議して、二〇一〇年六月、カリフォルニア大学が全校一致して購読料値下げを要求したのである。これに比べれば、日本の読者、研究機関は静かなものだ。ただし、この問題が無視されていたわけではない。一〇年ほど前、ノーベル賞候補と目されたこともある世界的に有名な日本の大学教授が、すでに強烈なネイチャー誌批判を展開していた。いちばん大切な審査過程を科学者が無償で担っているのに、ネイチャー誌は暴利をむさぼりすぎている、というのだ。
 このような科学者の不満と不公正感が、オープンアクセス雑誌という新しい形態の論文雑誌を後押しした。既存の雑誌は購読料で経費を支払う。つまり論文が掲載された時点で費用を払っていることになる。ところが新しい方法では、研究者が論文を投稿して審査に合格した時点で、出版社に出版費用を支払ってしまうのである。いずれにしても税金の支出に変わりない。そして、新しいオープンアクセス雑誌は紙媒体で出版されることはなく、インターネット上で直ちに無料公開される。これにより、従来の印刷媒体よりも、総費用は安くて済むことになる。
 この考え方は、お金の出所は同じ国民の税金なのだから、その知的財産たる論文は、直ちに人類共有のものとなるべきであり、費用もできるだけ少なくすべきだ、というところにある。ある調査によれば、いまや科学論文の四〇%近くが、すでにこのオープンアクセス雑誌に投稿されているという。どんどん増えているのは間違いなく、例えばネイチャー誌自身も、ただ指をくわえているわけにはいかなくなった。そして、ネイチャー・コミュニケーションズ誌とかサイエンティフィック・リポーツ誌といったオープンアクセス雑誌を次々に創刊しているのである。
 こうして科学論文雑誌のシェア争いは新たな段階を迎えている。ただ、ここで確実に言えることは、ネイチャー誌本体の収益は、確実に下がっているであろうということだ。
 サイエンティフィック・リポーツ誌という名前をどこかで聞いたことはないだろうか。これこそ、例のiPS細胞治療ほら吹き事件を引き起こした森口尚史が、一連のウソ論文を発表する足がかりにした雑誌なのだ。さすがに「ネイチャー」という名を冠していないのは、同じ会社の論文誌とはいえ、品質保証はできないと公言しているようなもの。実際、一流の雑誌は三人の査読者を用意するのに、この雑誌では査読者は一人しかいなかった。そこを森口にうまく突かれたのである。
 最近では、ノバルティスファーマ社の研究員により、降圧剤ディオパンの臨床研究データの改竄という事件が起きている。これもまた論文が関わる事�盾ナあり、こんなところにも論文至上主義が顔を出している。三者の関係を見ると、資金提供者が企業の場合、広告出稿を通して論文雑誌に関わることも多い。■
<2014.4.22>


●その後の活動報告……2010.9.15


《『日本の数字』の続編について》


 『日本の数字』を纏めて以降、ありがたいことに「最新版は出さないのか?」というお問い合わせを多数いただきました。ただ、ご推察いただけると思うのですが、この種のデータの基本ソースはあるのですが、それをきちんと読み解いて評価するのは、実は非常に大変な作業です。時間的・経済的によほどの余裕があるか、あるい は燃えるような使命感でもないと、なかなか、できるものではありません。

 もちろん、もう一度あらためて纏めてみたいという希望はあるのですが、零 細出版社の社長兼小使い件ジャーナリストの身としては、それがいつになるの か、予想はできません。でも、いつか、もう一度挑戦してみたいとは思ってお ります。

 『日本の数字』をきっかけに何人かの人が著書を書かれているようで、それ については、たいへん嬉しく思っております。私が注目してほしかった「現実 から物事を考えよう」というスタンスが、わずかではありますが、この国に波 及したのではないか、と勝手に思っております。

関連した執筆原稿

 実は、このテーマに関連して、その後も、問題提起の文章を書いてきました。 それを簡単にご紹介しておきます。

 2004年12月から、「バイオニクス」(オーム社)からの依頼で、約2年間、さ まざまな日本の社会問題について、「数字でみるニッポンの真実」という連載コ ラムを書きました。『日本の数字』で積み残した問題提起を、いくつも取り上げ てあります。

 その後も、科学技術を中心に「日本とは何か」について、いろいろな媒体で執 筆活動を続けていますが、最近は「産官学連携ジャーナル」がおもな舞台にな っています。

 科学技術以外の分野については、専門のジャーナリストがたくさんおられます ので、公的な媒体での口出しはできるだけ控えています。それは私の任ではな いからでもあります。ただ、それでも日本国民として看過できないことについ て、ここで指摘しておきたいと思っています。


過去のコラム


●怪しい話−−その1……2004.10.27


《外国為替市場はラスベガス》


 数字を知ると、本当に、世界のインチキ加減がよくよく見えてきます。
 全世界の金融資産は7000兆円もあります。有り余っています。一方、お金は利子を生まないといけないことになっています。しかし全世界のGDP合計は3000兆円しかありません。これで、どうやって金融資産の金利が稼げるのでしょうか。どこに「投資先」が残っているのですか? 算数の問題です。
 マジメな話です。行き場を失った「お金」は、もうギャンブルで稼ぐしかない!のです。『日本の数字』にはあげてありませんが、外国為替市場の取引額のデータをお教えします。国際決済銀行(BIS)が発表しているレポートによると、毎日、1.9兆ドル、つまり200兆円もの為替売買が行われているのです。この数字で注意すべきは、「毎日」であって、「毎年」ではないということです。年にすれば、7京6285兆円という、まさに天文学的な数字になるのです。
 これは7000兆円の10倍強、ということです。金融の専門家はご存知と思いますが、このレポートは「Central Bank Survey of Foreign Exchange and Derivatives Market Activity in 2004」で、インターネットで読めます。
 このような「外国為替市場」など「市場」とは言えません。笑っちゃいます。なぜなら、本当の需要も供給も存在せず、度胸とハッタリとインチキ・ディーラーによるルーレット台でしかない、とデータからわかるのです。なのに「市場にまかせる」と堂々と発言する前・金融大臣を何と呼べばよろしいのでしょうか?


●怪しい話−−その2……2004.10.27


《郵政民営化は多国籍企業の陰謀?》

 
 世間を賑わせている「郵政民営化」ですが、おそらく、この問題の本質を見抜いている人は少ないと思います。そこでデータから1つの“仮説”を提示します。結論は、表題にあげた「多国籍企業の陰謀」です。
 前項で、世界にいかにお金が溢れているかをデータで示しました。では、そのお金(金融資産)はどういう形になっているか、です。
 実は、7000兆円の金融資産の6割をアメリカが持っています。日本が2割、英独仏で2割です。そのアメリカは1600兆円を株式市場の形で持っています。それとほぼ同額を債券やデリバティブで持っていると推定されます。このお金が実に怪しいのです。
 GDPが日本の2倍しかない国の株価時価総額が、なぜ日本の300兆円という株価時価総額の5倍もあるのか。たぶんバブル。だから、どうにかして「安全な投資先」に移したい、と考えます。これは金持ちも貧乏人も同じでしょう。
 このいちばんよいところが「健全な国営企業」です。税金で育てられ、しかもその国民に必要不可欠なものであれば倒産するはずがないからです。
 実際、投資先を失った世界の大金持ちと多国籍企業は、国営企業の民営化という「悪魔の仕業」を世界規模で仕掛けています。確実安全な「お金」の行き先が必要だからです。そして、最終目標が公共財の私物化なのです。
 よくよく調べてください。郵政事業とは公共のためのサービスです。民間の宅配便業者が倒産せずにこのサービスを一律料金でできるはずはありません。また、倒産の危機に直面した民間企業が、倒産を覚悟の上でサービスをすることなど、そもそもありえないのです。
 では、郵便事業を担っている人は、まじめに働いていないのですか? 山奥の一軒家まで手紙を運んでいないのですか? そうではないのです。公共サービスというのはそういうものであって、何もそこから利益をあげる組織体ではないのです。それによって、社会の豊かさの基盤が与えられるものだからです。
 郵便貯金の話もウソです。その総額は、たかだか、日本の全金融資産の1割でしかありません。これで「民業圧迫」しているわけではなく、日本の金融機関がそもそも、もうまともな投資先を確保できないのです。お金が有り余っているからです。そんな中に、さらに民間資金が増えてしまったら、ますます金利は稼げなくなります。
 もう1点。よしんば、郵政の民営化というなら、この事業はそもそも国民の税金で維持されてきたものですから、全国民に1株ずつでも無償配布すべきものです。少なくとも、そういう考え方があってもおかしくありません。ところが、アメリカという国は、税金でお金のかかる事業の立ち上げをやり、それをすぐに民間に二束三文で払い下げてしまうという歴史を積み重ねてきた国なのです。それを「ドロボー!」と強烈に批判したのが、かの「宇宙船地球号」を提唱したバックミンスター・フラーだったのです。
 郵政の民営化を強行する小泉さん。御自身が悪魔の手先になっていることを御存知なのでしょうかネ。その背後にある新自由主義者の陰謀を、アメリカやヨーロッパの知識人は見抜いています。


●怪しい話−−その3……2004.10.27


《公私混同と民営化》


 「公私混同をしてはいけない」という倫理観を私たちの社会は持っています。公人、たとえば政治家や官僚がワイロを貰ったりすると批判され、逮捕されるのは、法律で決まっているからだけではありません。その根底に、「公共」のものと「私的」なものは、明確に分けなければいけない、という考え方があるのです。
 民間企業はよく、血のにじむような思いをして節約しているのに、役所は何も努力していない、という言い方がなされます。本当にそうでしょうか?
 例えば、いま起こっている新潟県の地震です。役所、警察、消防署のみなさんは、自分の家に障害があっても、被災者の救援にあたっています。これはなぜでしょうか。「公共のサービス」に従事する人々の役割だからです。血のにじむような努力をされているのです。もし民間企業であれば、このようなサービスをする必要はありません。会社を休んで自分のことだけやっていても、他人から批判されることは、基本的にありません。
 何が言いたいかというと、「公私混同」というのは、何も個人的なことなのではなく、社会的役割としての「公」と「私」はまったく異なることであって、それぞれが追求する価値観も異なるのだ、ということです。
 「公」にとって最も大事なことはサービス(奉仕)であって、利益をあげたり、効率をあげることではありません。一方、「私」にとって最も大事なことは、利益をあげることで、だからそのために効率を、求めるのです。
 そして、ここが最も大事なことですが、このような「公」と「私」は、最も基本的な部分において、絶対に相容れることはない、ということです。公共サービスと利潤追求は、絶対的に矛盾するのです。並び立つことはない、と言ってよいと思います。そういう2つの基本的に矛盾する「倫理体系」を持っているのが、実は人間社会なのです。
 その基本矛盾を、まるで矛盾がないように誤魔化しているのがいまの日本です。「民営化すれば効率があがりますよ」というのは甘言です。JRの例がよく出されますが、どれだけサービスが低下したか、誰も言わないでしょう。試しに、電車の中で気分が悪くなった、と芝居を打ってみたらいかがですか。そうすれば国鉄時代との差がわかるのです。
 もちろん、民間企業にしたほうがスムーズにいく面がないとは言いません。ただ、あまり軽々しく問題を考えてはいけませんよ、ということです。郵便が民営化するということは、それがつぶれる可能性があるということです。公共サービスの不健全な社会は住みやすい社会ではありません。そもそも、アメリカの郵便って、小包みなどまともに相手に届かないシステムだったのです。
 そしていま、日本の宅配便メールでも、相手に届かないことがかなり起こっているようです。私の知人は、それ以来、宅配便メールをやめ、郵便システムを見直したと言っていました。
 そもそも、どこに、いまの日本の優れた郵便システムを「効率化」する必要があるのでしょうか。お金は有り余り、700兆円の借金だってウソなのに、なぜ民営化して「せっかく隠れていた貴重な財産」を、偽札に置き換えなければいけないのでしょうか。総理大臣や厚生省や市役所をなぜ民営化できないのか、いまこそ、もう一度、きちんと考えるべき時だと思います。


●怪しい話−−その4……2004.10.27


《米国債を売って、新潟県中越地方の復興資金にしよう!》



 私の相棒が、すばらしいアイデアを出してくれました。地震で大きな被害に遭われた新潟県中越地域の復興資金に、アメリカに拉致されている米国債を5兆円くらい引き出して使いましょう、というものです。
 テレビで観ると、山がいたるところで崩壊しています。財政赤字で日本政府や地方公共団体は非常に苦しいようなので、あの地域の復興には、いったい、どれだけの年月と資金が必要になるだろうか、そのお金はあるのだろうかと、途方にくれるのではないでしょうか。
 でも、大丈夫です。日本にはお金はたくさんあります! お金をお金(偽札まがいの存在)で持っているより、緑豊かな自然環境の中で、住民が細かく手入れを行き届かせた国土こそ、私たちの子孫に残せる財産です。日本政府は、どんどん資金を投入して、地震が終結したら全力をあげて、中越地域の国土復興に取り組むべきです。
 さて、そのお金ですが、実は日本は、政府・個人・企業が合計で、実に300兆円もの海外資産を保有しています。この数字もあまり公言されていません。とくに悩み多いのが「米国債」です。推定で200兆円はあると見られています。
 これだけ「米国債」を買ってやっているのは、1つには、日本国内で金利を稼げないからです。日本の大銀行なんか、自分の営業努力を放棄して買い漁っている、と私には映ります。だって、3%だったか4%だったかの利回りなんですから(で、日本人預金者にはppmの金利しか払っていないんですヨ)。もちろん日本政府も大量に購入していますが、ではその資金の出所は?
 財政的に苦しいのに、なぜ米国債を買えるお金があるのでしょうか? それは、米国債を購入するために新たに日本国債(せいぜい1%の利子)を発行しているからです、これホントです! そして、金利差を稼ぎ、年間予算に組み入れているのです。
 でも、この米国債ですが、アメリカは今、確かに利子を払ってくれています。ま、これは借金だから仕方なく、です。では、この米国債の元本は、返却可能なのでしょうか。「ノー」です。アメリカの財政赤字は日本並みかそれ以上だからです。ハナっから還せっこないんです。200年たっても無理です。こんなひどい国債がなんで「AAA」なんですかね。なぜか、その格付け機関が、アメリカ政府とグルだからです。
 日本の国債が「CCC」だとか何とか言われますが、ウソ言ってはいけません。日本の国債は何も外国から買って貰っているわけではないからです。いざとなれば、日本国民が負担すればすむ話で、そういうことは、ま、起こらないほど日本人は大金持ちだからです。これ以外に、国有地とか道路とか公共施設という膨大な資産を政府や地方公共団体は保有しているんですよ!
 で、まあ、このような自然災害の時ですから、政府も緊急のお金が必要です。だから、米国政府と交渉して、政府が保有する約70兆円の米国債のうち、せめて5兆円くらいを売却する、という話をつければよいのですね。
 ただ、米国政府は抵抗するでしょうねえ! 下手をするとドル不安を加速することになります。だいたいが、いまのドルの対外価値は、ほとんど日本が保証してやっているような現状だからです。でも、あえて、米国債を売却することは、たぶん世界全体にとってメリットのほうが多いと感じます。アメリカ国民にとっても、自分たちがいかにイビツな国家を作っているか、少しは実感できるのではないか、とも思うからです。
 コワイのは、かつての橋本総理大臣の苦労、またアメリカ大和証券の解散の本当の理由が、実は、この米国債を売却しようとしたことにあった、という噂があることです。ゴロツキにお金を巻き上げられる日本、という構図です。これに一矢も二矢もむくいておかないと、将来が危ういのは明白かもしれません。


●怪しい話−−その5……2004.10.28


《Newsweek世界国力ランキング》


 Newsweek日本版の2004年11月3日号の「世界国力ランキング」は、『日本の数字』で私が遠慮がちに述べたことを、かなりあからさまに書いていて、まさに我が意を得たりです。もっとも、日本の評価に関する部分については、たくさんの異論があります。ま、アメリカのユダヤ系ジャーナリズムの雑誌ですから、そのことを知っている人には、おわかりとは思いますが…。
 ま、この欄を見る人は、Newsweekを読む人よりはるかに少ないので効果は期待しませんが、なかなか勝手なことを書いています。そもそも、28-29ページの分析ですが、第5位の日本のところに「経済力で5位に甘んじたのは国の借金が大きすぎるから」と書いてあります。確かに『日本の数字』であげたように、700兆円の負債があるのですが、半分の金融資産もあるのですよ。しかも国全体で、米国債を200兆円も買い支えてやっている国(日本政府としては70兆円)に対して、このコメントは事実誤認というか、まったく失礼なものだと私は思います。
 であるのに、別の項目(30ページ)では、その膨大な赤字である米国債について触れていて、日本と中国が買い支えていることに言及しています。こりゃ何でしょうか。ついでに、この部分を書いているファーガソン(ニューヨーク大学教授)が次に、「アメリカの財政赤字は、メディケア(高齢者医療保険制度)と年金制度の大改革を行わないかぎり、今後も増え続ける公算が大きい」というにも、首をかしげてしまいます。
 というのは、確かにそうなのかもしれませんが、アメリカの年金制度や医療保険制度が他国と比べてそんなに立派なものとは思えないからです。これについては、具体的な数字を調べないといけないので断定はしませんが、社会保障制度が整備されていないアメリカが、それをさらに悪化させることができるんでしょうかね。
 あと、生活力なんかもかなりアヤシイ感じがします。よく出てくる「ビッグマックの値段」なんて、もう陳腐そのものでしょう。あいかわらずこんな指標を使っているんですから、ホントのことがわからないんだと思います。
 ただ、全体としては、ユダヤ系=民主党系=メディアの主張がクリアには出ていると思います。ただ、ここでのデータは、かなり恣意的なものも含まれていることは気をつけてください。