新聞・テレビ・雑誌による民主党代表選挙の報道があまりにも奇妙なので、
問題点を指摘しておきたいと思います。


●続・怪しい話……2010.9.2


《民主党代表選挙での要注意事項》

小沢総理をどうしても阻止したいマスコミ?
 ご承知のように、小沢一郎・前幹事長と菅直人・代表による選挙が9月14日に行われます。その論調を見ると、マスコミ各社は、どうやら、小沢一郎氏が民主代表、総理大臣になることを、どうしても阻止したいように思われるのです。
 私が「あれれ?」と感じたのは、日本経済新聞2010年9月1日付け1面下の春秋欄を読んだ時でした。代表選挙を揶揄するコラム記事の中で、「そもそも、一騎打ちといっても片方は強制起訴されるやもしれぬ人なのだから恐れ入る」とあったのです。  もちろん、小沢氏の政治資金に関わる問題は、「小沢=ダーティー」というイメージの出所です。その正否はともかく、多くの国民がそう感じていることは間違いないでしょう。しかし、そのことと、裁判・法律の話は別物だと思います。
 この種の記事が悪質なのは、表面的に読むと、まるで小沢氏が犯罪者であるかのような印象を読者に与えてしまうところです。もちろん記者は、そんなことは百も承知で書いているわけで、きちんと責任逃れができるような文章になっています。だから二重の意味で悪質なのです。
 私の記憶ですが、かつての新聞は、ここまで酷いやり方はしなかったと思います。それもあって、なぜマスコミは小沢氏をこれほどまでに嫌うのか、分析したくなったのです。

検察審査会は素人判断
 その前にまず、検察審査会について確認しておきたいと思います。この審査会は、小沢氏のケースのように、検察が起訴を断念した案件について、一般市民が「その不起訴は妥当であったかどうか」を判断するものです。検察審査会に実際に参加した経験者を知っているので、その人から詳しく内容を聞いたことがあります。
 普通は、交通事故で不起訴になった案件などを調べて、その不起訴が妥当であるかどうかを、審査会参加者の多数決で決定するそうです。もちろん、そのためには、検事などが作成した膨大な書類を読み込み、法律も勉強して、判断しなければなりません。
 はっきり言って、素人の勤め人には大変な負担であり、また当該事件を完全に理解するのは簡単ではないそうです。それでも市民の義務ですから、何の不幸か検察審査会の委員に選ばれてしまった人は、会社の仕事を休んで、月1回程度、半年間の義務を果たさなければなりません。
 ここで注意すべき点は、検察が不起訴にした理由のほとんどは、実際の公判を維持するのが難しいから、ということのようです。要するに決定的な証拠が欠けていれば、いくら疑わしくても、有罪に持ち込むことはできません。つまり、公判が維持できるかできないかを、訴訟のプロの一方である検事がきちんと判断した結果を、検察審査会は審査しているのです。ですから、データは見当たりませんが、審査される大半の事案は、検察の判断通り、不起訴は適当であった、という判断がなされているはずです。

好き嫌いで検察審査会が左右されては「人民裁判」
 では、小沢氏のケースを我々はいかに捉えるべきなのでしょうか。検察による捜査、調査、本人への事情聴取が行われました。しかしおそらく、たとえ起訴して裁判を起こしても、小沢氏を有罪にすることは不可能だと検察は判断し、それゆえに不起訴としたはずです。好き嫌いの問題でなく、そう理解することが最も合理的だと考えられるのです。
 もしも、有罪にできないのが明白な案件を、あえて起訴して世間の耳目を集めるようなことをしたら、これは人民裁判になってしまいます。起訴するには、それだけの根拠がなければなりません。そうでなければ昔の憲兵と同じになってしまい、検察の横暴、国家権力の乱用という禁じ手になるからです(最近、検察の杜撰さが異様なほど目立ちます。私のような門外漢から見てそうなのですから、おそらく法曹関係者の中では、これは大きな問題、議論となっているのではないか、と思います。これについてはあとで触れます)。

強制起訴とは何か
 次に、日経新聞の記事にあった「強制起訴」について考えてみます。検察審査会による審査とは、いわば、検察というプロの判断に対して、アマチュア、素人の意見を反映させる手段です。しかし、いくらアマチュアであるからといって、恣意的、感情的な判断がなされてはなりません。あくまでも、「不起訴が適切であるかどうか」という判断がなされるのです。
 もし検察審査会で不起訴が不適当だという判断がなされた場合、まず検察が再捜査(3カ月)して、再び起訴するかどうかを判断します。そして、それでも不起訴だとなった場合、改めて検察審査会で審査し、この2回目の審査会でも「起訴すべき」となった場合、これが「強制起訴」になるわけです。今度は、弁護士が検事の代わりとなって、裁判が進められます。
 ここで押さえるべきは、次の2点です。
(1)検察審査会は補助的な役割である。
(2)起訴は裁判を始める行為であって、判決(有罪・無罪)とは関係ない。

戦術的に利用される起訴
 裁判に訴えるという行為は、市民の権利です。しかし、この行為が、すべてまっとうな倫理観に基づいてなされているかどうかは疑問です。例えば週刊誌が有名人のスキャンダルを書き立てたとき、書かれた側は名誉棄損などで訴えます。では、この種の裁判は、どのくらい継続されるのでしょうか? 途中で訴えを取り下げるという行為はないのでしょうか? また、訴えを取り下げることを視野に入れて、あえて訴えを起こすようなことはないのでしょうか?
 私には、「強制起訴」というのは、現状では、とても危険な行為だと思います。なぜなら、捜査に関する詳細情報は、ほぼ新聞記者による独占的な報道を通してしか、知ることができないからです。ご承知のように、警察官や検察官が捜査段階の情報を報道機関に横流ししてよいという法律は存在しません。ところが、この明らかな違法行為がまかり通っているのです。しかも、それが正しいのかどうか、証明する手段も方法も存在しないのに、「捜査当局者の見通しによると」とかいった表現で、一方的な捜査情報が垂れ流されています。
 開示するのであれば、タレコミでなく、きちんと法律で手順や内容を定めるべきです。そうでなく、一部のマスコミによる風評が事件をあおり、それしか情報源を持たない一般市民が、はたして検察審査会でまっとうな判断ができるでしょうか? バイアスなしの判断ができるでしょうか? そうでなくとも、素人は、好き嫌いで左右される傾向が強い人々です。判断する力量のない市民を市民と呼ぶのは、あまりにも危険だと私は思います。

検察審査会の委員名を公開せよ
 特に重要な案件については、誰が検察審査会委員として判断したのか、私は氏名を公表すべきだと考えています。たとえ強制起訴となったとしても、裁判自体はきちんと行われますので、起訴すべきという市民の判断自体はあまり重い意味を持っていません。それゆえにこそ、検察審査会の委員名は公開すべきなのです。面白半分の判断、政治的な色のついた判断がなされてはならないからです。
 ただし、プロの検察が起訴は難しいと判断した案件ですから、有罪を立証するのは簡単ではない、と考えるのが常識的だと思います。強制起訴の例としては、明石市で起こった歩道橋事故があります。強制起訴が成立して、現在、裁判が行われているようですが、どうなるか結果はわかりません。新聞などは強制起訴になったこと自体を大々的に取り上げましたが、冷静に考えれば、それはどうということでもありません。ただ裁判が始まっただけの話です。
 問題は、有罪になるのか無罪になるのか、その理由に確たる法的根拠を見出せるのか、ということだけです。これは、冷たい言い方ですが、例えば遺族の感情などとは無縁の話です。

有罪・無罪は、裁判が最終的に終わったとき
 私がずっとおかしいと思ってきたのは、なぜ判決が最終的に決まらない段階で、被疑者がまるで犯罪者であるかのように扱われるのか、という点です。そこそこ年を取りますと、何か事件があったとき、「これ、何か怪しいなあ」と直感的にわかることが結構あります。厚生労働省の村木厚子局長が障害者団体の不正に関与したという嫌疑で逮捕された事件がありました。あの時も変だと感じました。局長というエリート官僚がそんなセコイことするかいな、です。
 ところがマスコミはひどいものでした。徹底的に彼女を悪者に仕立てあげ、捜査の怪しさを指摘する記事は、どこにもなかったと思います。でも、あの裁判がいま、どうなっているのか、ご存知だと思います。検察側の事情聴取の大半が、証拠に採用されなかったのです。大方の予想は、村木元局長は冤罪=無罪、です。
 鈴木宗男代議士、佐藤優外務省職員による事件も似たような話でした。法治国家の原則は、好き嫌いの話ではないのです。有罪・無罪は、法廷論争において最終的に裁判官のから下される結論です。人間が人間を判断することですから、間違いは起こります。でもそれは仕方ない。市民社会とはそういうもの、だからソクラテスは毒杯をあおったのです。
 しかし、せめて、裁判による最終判決より前に、勝手な判断はすべきではないと思います。特に判断の難しい微妙な案件に対して、マスコミと捜査当局者がグルになって作り上げる虚構が、どれだけの価値を持つというのでしょうか? 私はマイナス面のほうがはるかに大きいと感じています。

推理ドラマの見すぎ:再現ドラマなど、この世には存在しない
 いろいろな人と話をしていてびっくりするのは、まるで神様のような態度を平気でとる人が異常に多いことです。例えばある事件があったとすると、だれが真犯人であるか、何の疑いもなく断定するのです。先の村木局長、小沢一郎氏もそう見られています。
 私には、なぜそんな独善的な判断ができるのか、そんな考え方をして人間として恥ずかしくないのか、どうにも理解できません。なぜなら、何かの事件があったとしても、そこに私が立ち会っているわけではありませんし、たとえ証人のような別の人物がいても、その発言が正しいことを証明することなど不可能に近いからです。
 しかも、多くの場合、犯罪行為というのは1回きり。再現をすることができません。裁判、つまり人間が人間を裁くということは、ほとんど何1つ確かな証拠と言い切れるもののない状況において、その被疑者が犯罪を犯したのかどうか、いかなる意図・動機でそれをなしたかを立証することだと言えます。これは常識的に考えても、たやすいことではありません。
 それなのに、なぜ今の人は、平気で誰々が犯人だ、と言い切れるのでしょうか。おそらく、推理ドラマの見すぎです。ドラマでは必ず犯人がいますし、その犯人がどのように犯罪行為をなしたか映像化されています。だから、犯人は誰か、簡単にわかると錯覚してしまうのでしょう。しかし、これがわかるのは神様だけ。この時、視聴者は自分が神様になっていることを意識しなければいけません。
 現実の社会においては、ドラマのような光景は100%見ることはできません。神様でなく人間なので、犯罪再現シーンなど、見られるはずもないのです。ところが、検察の失態などを記事で読むと、検事自身までが、まるで推理ドラマのような道具立てで架空の発言をでっちあげているのではないか、と疑いたくなります。ドラマという虚構が、人間社会の営みという実態(実体)を飲み込みつつある、と私は感じます。

リアルとバーチャルの巧妙な操作
 現在の日本社会は、恐るべきリアル感の喪失状態にどんどん移行していると私は思います。知ることには限界があるにもかかわらず、仮想・妄想がどんどん拡大して、人間としてますます傲慢になっていると思います。神様の視点は、その最たる例でしょう。
 さて、民主党の代表選挙の2人の候補者を見てみましょう。一般の人々の感覚は、「小沢一郎=傲慢」「菅直人=誠実」といったところかもしれません。ところが私は、まったく別の感覚を持っています。「小沢一郎=リアリスト」「菅直人=バーチャル人間」です。
 まず菅直人氏についてです。彼は民主党内閣の発足とともに内閣府特命担当大臣(副総理)、今年の1月からは財務大臣として常に政府の最重要ポストを占めてきました。そして6月から総理大臣の職にあります。特に財務大臣の時の発言が顕著でしたが、彼はこんな感じの発言をします。「景気対策が必要だ。必要な手を打っていかねばならない」。それはそうで、正しく、間違いはありません。「官僚主導でなく政治主導で決めていく」。これもそうです。
 何が言いたいかというと、この人は、常に第三者として、「何々すべきである」という言い方をします。でも、政治家というのは、何か具体的な政策を立てて実行する職業です。鳩山前総理がちょうど1年前に「CO2を25%削減する」と言ったようにです。
 では、一体、菅直人氏という政治家は、約1年の民主党政府の中で、何を具体的に政策として実行したのでしょうか。怒られるかもしれませんが、私の印象には何もありません、ゼロです。第三者としての分析・評論はあっても、自らの哲学、意思に基づいた政策を何一つ実現実行していないではないか、ということです。私が彼をバーチャル政治家と見る根拠はそこにあります。
 名誉棄損になりそうな話は書けませんが、彼が表向き対峙してきた官僚に知恵を借りていることは間違いありません。先日の経済対策もおそらくすべて、官僚の作文と思われます。でも、官僚たちが本気で総理の知恵袋になっているとも、思えないのです。たぶん裸の王様状態ではないかと思います。
 ここまで言えば、小沢一郎氏という政治家は、菅直人氏と正反対であることがおわかりいただけると思います。彼は民主党政権となっても、政府にはまったく参加しませんでした。党務に徹するという姿は驚くほど禁欲的で、あるいは徹底した原則主義者なのかもしれません。普天間問題などで、言いたかった、また言うべきだった話は山ほどあったと想像しますが、彼は、政府のやり方には一言も口を挟みませんでした。それは見事なものです。言ったことは、あくまでの民主党としての要望・意見であったと記憶します。
 新しい記憶は、菅直人総理+枝野幸男幹事長のコンビが、参議院選挙で大惨敗した事実です。鳩山政権の普天間処理の失敗はありましたが、有権者は菅総理の虚構を一部見抜いたのではないか、とも思われます。でも、本当に不思議なことに、菅直人総理+枝野幸男幹事長の2人は、選挙の敗北について何の責任もとりませんでした(あの2人には、40年前の学生運動のときの無責任な壊し屋たちの姿がダブりました)。

アメリカに嫌われる小沢氏?
 9月2日付けの日経新聞に、「なるほど」とうなづく記事が出ていました。それは、世界各国の政治関係者が、日本の民主党代表選挙をいかに見ているかという記事です。案の定、イギリスとアメリカでは、小沢一郎氏が総理大臣になることに強い警戒感を示している、というものです。中国は、小沢氏が親中国派とされる割には、特別の期待感など持っていないようです。韓国の大統領近辺は非常に期待しているそうです。
 この記事自体もなかなか怪しそうで、フランスやドイツやロシアの首脳部の意見が出ていないのですが、それでも、イギリスとアメリカの警戒感というのはたぶん正しいと私は見ます。
 小沢氏が総理になれば、たぶん、普天間問題も、どうなるにせよ決着はつけるでしょう。その際、たぶん、鳩山前総理よりもアメリカに対して一歩踏み込んだ要求を出すと思われます。リアリストの小沢氏ですから、少しくらいの摩擦は恐れないと思われるからです。
 でも、このことが、日本のマスコミによる「小沢総理の阻止運動」の源になっているのかもしれません。謀略説に100%の支持はできませんが、内閣機密調査費にからんでいそうなマスコミOBやジャーナリストが、反小沢というより小沢攻撃に近い発言を露骨にくり広げているように感じます。だいたいはワシントン特派員組みと思われ、どこかの諜報機関の意図を代弁しているのでは?と感じました。

笑える非常識
 テレビのワイドショーでも政治・政治家は視聴率獲得の道具になっているようです。芸能ニュースが専門のキャスターらが、見栄を張って政治論議に加わろうとしていますが、彼らの感情論もまた、悪者小沢一郎のイメージを増強しているように思います。小泉純一郎という史上最低の総理大臣を持ち上げたのも彼らだった、と思い出しました。
 で、笑い話。朝のワイドショーでかなり有名な司会者の発言です。「トロイカ体制って、……」と始めたのはよかったのですが、その後の話が、ダメ。ソ連まではよかったのですが、1964年のブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイの三人の指導者の名前が出てこない。というより、歴史の流れをひっくり返したような発言になってしまいました。ま、こういうことはよくあるのでしょうが、せめて高校の授業内容くらい覚えておけよ、と思いました。
 これは歴史的事実なので、ま、教科書やネットを見れば確認できるのですが、もっとびっくりした話もあります。先の参議院議員選挙で民主党は大敗しましたが、民主党の誰かが「二人区で負けたからだ」と発言していました。もちろんそれは誤りで、二人区で一人当選した選挙区はたくさんあり、要するに一人区で負けたのが決定的でした。私は、いまの若い政治家は数字さえ読めないのか、とあきれたのですが、その発言を正すマスコミも見られなかったのです。

ウソからは何も生まれない
 正直言って、民主党が政権をとったとき、私自身、ある種の期待感を持ちました。しかし、「こりゃあダメだ」と感じたのは、事業仕分けに登場した有名女性議員の発言でした。無駄をなくそうという趣旨(例の菅直人氏的評論)はわかるのですが、その具体策というか具体的な話について、実にみごとなほどに何の知識も持ち合わせていなかったからです。たぶん彼女はいまも、自分の発言は正しかったと思っていると思いますが、世界の笑いものになった事実をご存知ないのです。
 政治だって、科学や技術と同じ部分はあると思います。それは、まず事実に基づくということです。ありもしない仮想現実の上には、楼閣は立たないことを知るべきです。そのためには、もう少し真面目に勉強されたほうがよろしいと思います。「勉強しなければならない」ではなく、具体的に、例えば日本のお金の循環がどうなっているかを学ぶこと、日銀統計を自分の手で書き直して理解すること、そうした努力なしには、世界有数の豊かな国ニッポンの政治家たる資格はないと知るべきです。■